日記・コラム・つぶやき

2010年8月 8日 (日)

フジヤマ&ハトカレー

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I ♡ Curry展のイベント「カレー皿絵付けワークショップ」で絵を描いた皿が焼き上がってきました。

思っていたよりへぼへぼ!
でも自分で描いただけに愛しいものです。

白い皿にいきなり筆をいれるなんて全く考えていなかったのですが、
絵付けの一回目で、友人が絵付けしているのを見ていたら、
なんだかとても楽しそうで、うらやましくなって、その場で次回の申し込みをしました。


当日は所用で遅刻してしまい、
ハト皿の絵付けが終わったときには、残り20分。
フジヤマに手を付けるかどうか悩んだのですが、思い切りました。
人間、やればできるものです。
(↓Barまはからでの作家DAYに、コースターで練習済み。)

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今年は梅雨から暑くて、昨年に比べると夏が長いですね。
ちょっと前は湿度が高かったので、我慢ならないくらいでしたが、
このごろは乾燥していて風もあるので日本の夏じゃないみたい。

大陸の夏ってこんな感じなんでしょうね。行ったことないけど。

過ごしやすくはあるのですが、夏はいつも食が細ってしまうのが悩みの種。
この皿でカレーを食らってがんばります。

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2009年11月16日 (月)

注意! 芋虫嫌いの方、画像の拡大厳禁!!

虫をながめていてあきないのは、それが人間の営みと重なってみえるからだ。

米びつの中がかなり大変なことになっていたので、天日にさらすことにした。幼いのころ見た光景のようにうまくいくだろうか?と心配しつつながめていたところ、5分とたたないうちに、奴らが一斉に這い出してきた。みな同じ方向へ向かって逃げていく。やつらはノシメマダラメイガの幼虫。米にわく虫だ。

11月といっても、やつらの皮膚の薄さには、日差しがこたえるのだろう。そこが人生の終点でも光と逆へ逃れるのは本能だな。

子どものときは、逃げまどうやつらを箸でつまんで、アリの巣穴の近くへ落としては、引きずり込まれていくのを眺めて楽しんでいた。今回は屋上。鳥が食べにくるかなと期待したがそんなことはなかったようだ。1時間しないうちにみな動かなくなった。


また休日がやってきて洗濯物など干していると、茶色くしなびたむくろの山のなかで生きている個体がいる。なんという生命の強さ。命の希望!地球に生命が現れてから、幾度とない激的な環境の変化において、耐えられないものが消えていくなか、残ったものたちが種を継いできたのだな。はてしない年月に気が遠くなる。

世界を手にしている人たちからすればわたしもノシメマダラメイガの幼虫みたいなものなのだろうと思った。

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2009年11月 3日 (火)

ロックもメタルも聴き分けられない

どころか、好きな曲がどんなジャンルなのかさえわからない。
決して嫌いなわけではないが、音楽とはかなり幼い頃に決別している。

母に「ピアノを習うか」と問われ、当時は近所のガキンチョらと一緒に野山を駆けまわって悪さをし、全く偏見なのだが、ピアノは女の子がするものと思っていたから、即「ヤダ!」と答えて以来縁遠く、その後、ぽつりぽつりと不可解な思い出があり、ついには音楽がなくても平気で生きていけるようになったのだった。

それが何を気まぐれたのか、いや、つねに気まぐれなのだが、今まで出会ったドキュメンタリー映画とはかなり変わった「アンヴィル〜夢をあきらめきれない男たち〜」を観た。

生活のために仕事をしながらバンドをやり続け、50歳を越えてもなおロックスターになる夢を語る、この前向きにもほどがあるオヤジどもがケンカしたり、おまえを愛しているんだ!などと言って仲直りしたり、いとおしさを醸してくるさまにココロ温まる。“永遠の”というと聞こえがいいが、この人たちは“永遠に”中坊だ……。また、支える家族の想いが切なくホロリとくる。

なにかをつくり続けるすべての人におすすめ!

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2009年10月18日 (日)

あれっ?わたしこんなに美人だったっけ???

カコン!と、受け取り口に落ちてきた写真を、思わず食い入るように見てしまう。

友人の「プリクラとりたい〜」に誘われて十数年ぶりに収まったときのこと。パッチリとした目、顔はツルンと血色よく、表情には勢いがあり人物はキラキラと輝いて見える。
やけに変だな。
それが何だか判らずしばらく見入っていたら、友人に「美人機能」だと教えてもらう。

自分が他人の顔写真を扱うとき、言われなくてもちょっと歯を白くしたり、吹き出物、くすみ、シワなど適度におさえてやるのだが、そんな手作業を機械が一瞬にして情報処理してくれるなんて!
絶句した。

これじゃ映像ももうすぐだな。てか、すでにそうなっているでしょう?

ときおり、たくさんの履歴書を見ることがあるのだが、そこに貼ってある証明写真は、人物を見極めるのにまったく参考にならない。たいてい、写真のイメージと本人とはかけ離れていることがほとんどなのだ。

会えば、その人のたどってきた人生を、その人が獲得してきた人生の方針を皮膚感覚で見ることができる。写真には写らないそれらは、容易に人の潜在意識に伝わる。重ねればより。

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本日、椎名町の金剛院というお寺さんの本堂で上演された、近松門左衛門の『曾根崎心中』を見てきた。東京ノーヴイ・レパートリーシアターの演目のひとつで、何回か見ているものだ。
http://www.tokyo-novyi.com/

わたくしが演劇を観始めたのは大学生のころから。
テレビドラマに近いようなどたばただったり、お笑いだったり、不条理ものだったり。しばらくすると、ひとしきり笑った後に沸き立ってくる空虚にのみ込まれて、具合が悪くなることが多くなったので観るのをやめた。

今日、役の人生がみえてくるというはじめての体験をした。
遊女お初はダブルキャスト。可憐な声、その姿から決意の強さをにじませるその一方は、天真爛漫でまだ幼さをすこし残していながら強い意志で進んでいく。

テレビを観なくなって2年半。
テレビというものを分かっているつもりで見ていても、かなりの影響があったと思う。事実、いまでは心も身体も軽やかだ。

何を見て、何を見ないか。
何をして、何をしないか。
強い意志で見極めなくてはならない時代になったものだ。

↓マネキンに描いた極楽浄土
Gokuraku

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2009年10月10日 (土)

名を尋ねると「モニカ」と答えた

描くときは頭の中で、その女を前から後ろから、上から下から、ひっくり返したり、のけぞらせたりしながら構想を練る。裸体の女をじっくり見ながら描くことなど、もう十年以上もしていなかったが。

昨年より、美人画の先生のクロッキー教室へポツポツと通っている。女性ヌードはもちろんのこと、男性ヌード、外国人女性の民族衣裳などいろいろな回がある。想像とはいえ、いつも女体を描いているわけだからまあまあ描けるだろうと思いきや、悲しいほどに形が取れない。がっくり。

クロッキーの面白さがわからないまま2、3回なんとなく通っているうち、ある日それはきた。その日はダンスをやっているという若い男性がモデルで、流れるような筋肉がそれはそれは美しかった。上手く描けなくて恥ずかしいとか、似せなくちゃとかそういう余計な念が入り込む隙がないほど、モデルの一瞬を逃さず描き摂ることに夢中になる。

そして本日、小柄だけど肉づきのよいキュートなドイツ人女性がやってきた。
ポーズが決まっていてカッコいい。
聞くと、アートスクールで写真を勉強していたとき、絵を描いている友達のモデルになっていたという。名を尋ねると「モニカ」と答えた。

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初日のクロッキー:へぼへぼです
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モニカ

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2009年10月 5日 (月)

死して屍拾う者無し

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図鑑や画集、実用本はながめていたが、もう十年以上、まともに“本”を読んでいない。
いや読む気がしなかった。
なんだか変なところに力が入ってヘトヘトだった。
ある人に「あなたは新幹線に乗っても、風景を見ずに本を読んでいそうだね」と言われたことも、真意をとらえられず影響していたのかもしれない。

が、それら人生の勘違いを自己流認知療法で修正しつつ、
近頃ようやく力が抜けて楽になってきたのか、
むくむくと読みたい気持ちが生まれてきた。

いい味わいの包装紙を、取っ替え引っ替えしながらカバーにする。
お気に入りは、神田志乃田寿司(からし色)。
名を失念したが、ある老舗和菓子屋のものは裏面に点線が入っていて、封筒が作れるようになっている。
が、わたしはブックカバーにしてやる!

そんなカバーにくるまれているのは『日本の名随筆』。
ある漢字一文字をテーマにして、数十編の随筆を集めた秀逸なシリーズだ。なんと全100巻。
別巻の二文字シリーズを合わせたら全200巻。
十年ほど前に読んでいるはずなのに、まるで新たに読んだかのようなものもあれば、何度も何度も繰り返し読んだのに、未だに褪せないものがある。
このシリーズは、どれを選ぶかによってその人がチラリと見えてしまう。
わたくしが手に入れているのは
『父』『母』『命』『産』『女』『狂』『虫』『顔』『葬』。

『性』がまだなのが意外(笑)。まあ後にとっておこう。
次は『死』を検討中。

死といえば。
いままでかなり身近に迫った(と感じた)時が3回ある。
はじめは小学高学年のとき。
あめ玉食い競争で粉も吸い込んでしまい、息ができなくなった(と思った)とき。
迫りくる死を、みなに伝えようと必死にもがくが、それが面白かったようで笑われる。
すぐに鼻から息ができることに気づき、安堵する。

次は高校生のとき。
田舎なもので、遮断機のない踏切がある。
普段警報が鳴っていても、様子を見つつ渡っていたのだが、
自転車通学で、たまたま友人と帰りが一緒になった。その日はあいにくの雨。
駅で電車がいつまでも停まっているから、いいか、行っちゃえとなって、友人が踏み出した直後、友人が見えなくなり、反対方向からきた電車がもの凄い勢いで駆け抜けていった。一瞬にして血の気が引き、身体がしびれてくる。まさか、明日は新聞一面?!
電車が通り過ぎ、その先に友人の後ろ姿を見いだしても、にわかに信じられないほどだった。
タイミングが少しずれていたら、友人か、私か、どちらかが轢かれていたかもしれない。
その後すぐ、その踏切に遮断機がついた。私たちのせいか。
           
今になるとアホらしいが、とある事件本を読んで、自分も犯罪グループに殺されるという妄想で死にそうになる。
内容があまりに現実的だったもので……。
死が近づくと世界の色が変わってみえるものだ。
なかなかの体験だったと思われる。

現代はそうそう簡単に死が済まない。
力尽き、そこで地に還る。なんと贅沢なことか。
ちょっと前、ノラ猫が車に轢かれて死んでいた。
轢かれて死んだちょうどそこがゴミ捨て場で、
なんとも皮肉なものだった。

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2009年9月27日 (日)

いつかはこない

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いつか、真っぷたつに割れたお気に入りの急須を金継しよう。
いつか、やせたらこの服を着よう。
いつか、この菓子箱を再利用しよう。
いつか、いつか、いつか……。

しかしたいてい、いつかはこない。

かなしいことに。

だが、珍しくきた!

いつか、自分で作れるんじゃないかと思って、結局十年以上経っていたタオルかけ。
作るにあたって3つのルール。

1、素材がシンプル 土に埋めると分解されるもの
2、作りがシンプル シロウトでもきれいに作れる
3、しょぼくない  視界に入るたび、みみっちい気分にならない


同じく「いつか役にたつんじゃないか」と、数年前に購入したきり、役に立ったことがない『結び方百科』(山と渓谷社)というロープワークのビジュアル本をながめていたとき、それはひらめいた!
今まで、どうして気がつかなかったのか。

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取っ手:ダブル・オーバーハンド・スライディング・ループ
輪:ラウンド・ターン・アンド・ツー・ハーフ・ヒッチズ
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ヒモは何かについてきたものを再利用したので、
かかった費用は木の輪のみ、500円ほど。

↓ちなみに以下、ササダンゴ結び
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ゴキブリ退治にタランチュラ

ナイスアイディア、と思ったんだけど。

スプレーだとおのれも吸い込みそうだし、叩くと中身が出ちゃいそうだし、ガムテを貼り合わせてパックするのは、小さいヤツでないと粘着力よりも勢いの方があまって、肩まで登ってきそうだし、掃除機で吸い込んだとしたら、やつらのあの薄さだ、どこかのスキマから逃げ出しちまうに違いない。

などと思案しているうちに、ふとひらめいたのがタランチュラ。
でかくて元気なコキブリがお出ましするので、小さなクモでは対峙できない。
その点タランチュラなら。

いくつも並んだつぶらな瞳で、物陰からじっとこちらを見ていたり。
もさもさの足先をそっとキーボードに乗せてみたり。
窓辺で飽きもせず外を見やっていたり。
そんな愛い姿だけでなく、ゴキブリも退治してくれるなんて。

実に一石二鳥。

ちょっと本気になって調べてみたところ、近頃のゴキブリは殺虫剤に汚染されているので、それを捕食しつづけるとタランチュラが死んでしまうという記事を発見。

生物濃縮という落とし穴!

ってその前に、事務イスで轢いてしまうわ!


↓ハエトリグモ。
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2009年9月24日 (木)

スイカおさめ

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今年のスイカもこれで最後。
出回るようになってから毎日、毎日スイカを食った。

この夏、エアコンをつけたのは二、三回、それも数時間程度。
日光を遮るビルもなく、天井裏もないため、屋根を照らした熱が直接部屋に伝わってかなりの室温になる。
そんな真昼にスイカを食らう。
一瞬にして張りつめていた体温が下がる。夢中で次々と食らう。
砂漠で遭難しかけ、ようやくオアシスにたどりついたそんな慌てようだ。

たとえ同じスイカを用意したとしても、肌もすべすべの快適空間の中にいたら、
あたふたするほど身体が喜んだりしないだろう。

子どものころ好きな季節は秋で、それは生まれた季節だからだとずっと思っていた。
が、スイカのおかげで初めて気がついた。夏がカンカンに暑かったからこそ、乾いた風が肌に心地よい秋が際立っていたのだと。

昨年はエアコンが効いた仕事場だったので、震え上がるほどの暑さも知らず、ひょっとすると秋より涼しい快適さで、
秋の到来はいつの間にか、喜びもなく味気ない思いをした。

いま、ますます便利になっていく様々のことも同じなのだろう。
知らぬ間に当たり前になって、喜びも薄れていく。
生命の危機が身近にあったころは、生きていることがもっときらめいていただろう。

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